失楽園 −北洋

 私がイタリヤローマ大学のF教授の研究室で中性子放射の研究をしていた頃であった。
 私は教授の紹介でコルソオ街のカステルマリ未亡人の家へ下宿して居た。未亡人にはジュリエッタと云う娘があった。やっと二十歳そこそこの無邪気な可愛らしい娘であったが、素晴らしい美人であった。外国人の憧憬的な眼には全く「勝利のヴィナス」の荘麗さをそのまま人間に移し取った様に思われた。どうも私の様な学究にはこの美しさをどう表現してよいかわからないが、浪漫的《ローマンチツク》小説家の慣用句を借用すると、彼女は銀色のはこ柳のようにすんなりとしていた。身のこなしには緩《ゆる》やかな快よい調和があり、その肉体には名だたる彫刻師でも驚く程の線の集りが現われている。そして夏水仙の暖い白さが、その豊かな肉体を包んでいるのである。鳶《とび》色の重い頭髪には南国の夜の光があった。
 その可愛らしい唇は、露に酔った真紅な石竹《せきちく》の花のように開いている。透き通る様な小鼻を持ったすっきりした真直な鼻は、七つの美しい生際の波形を具《そな》えた額と同じ高さで続いている。手足はギリシャの大理石像と同じような典雅《てんが》さを持っていた。
 −そして草原のように香ぐわしい、生きた花のような胸からは暖かい薫《かお》りが出て来るのであった。
 しかし彼女の黒い光を発する眼には、何か異教的な内に向っている狂熱が宿っていて人を安心して恍惚とさせない様な何物かがあった。そしてそのために却って強顔《つれな》い顔の線が蠱惑《こわく》的な美しさを崩れさせないのであった。
 彼女は憑《つ》かれた様に考えていたのである。心に思いつめたのが眼に現われたのであった。それは純情な南国の狂恋であろうか。いやそうではないのだ、いわばそう云う通俗的なものではないのだ、それだからこそ彼女に人間的な魅惑を求めようとする人は不可解な恐怖のために彼女に反撥されるのであった。
 ある八月の暑い日であった。丁度研究室の高圧発生装置を運転していた時であったので、私共は交代で研究室内にベットを持ち込み籠城していた。
 その日私は三日間の肉体の酷使から漸く解放され、家へ帰ってぐっすり寝るのを楽しみに次の当番のアルヴァレ君に研究室の鍵を渡して大学を出た。暗い実験室から出た慣れない眼は、放熱する南国の太陽にくらくらとするのであった。コロンナ広場《パラツソオ》の木蔭にペンチを出している行きつけの喫茶店ファビアンでソーダ水を一口飲むとやっと生き還った様な気になった。
 さてそうして身体中の感官が新鮮になると妙な臭いが鼻につくのである。ベンチを占領している誰でもがそれを感じているらしく不愉快な眼をお互いに見合せていた。しかしその臭いは客から来ているのではない。ポーターは迷惑そうにこの石畳の下を流れている下水が臭《にお》っているのだとすべての客に聞える様に石畳を叩きながら大声で弁解して居た。全く更紗のカーテンが美しい曲線を描きながら揺れているこの小ざっぱりした小喫茶店にはふさわしくない生臭い、魚の腐った様な臭いなのであった。この暑いのにこの臭い、私は胸がむかむかして来た。
「この辺に屠殺場でもあるのかい?」
「いえ、このローマ市城内にはそう云うものを作ってはいけない規則になって居りますからね」
「フーン、じゃどこかで密殺でもしているのかな、全くこりや堪らないね」
 街へ出て見ると他所でも臭っている所もあると見えて、ガヤガヤ家の前で顔をしかめながら云い合っている主婦達を見た。
 所が下宿へ帰って見るとカステルマリ夫人が大騒ぎをしているのであった。娘のジュリエッタが一昨日から見えなくなったと云うのであった。ジュリエッタは大学の近所にあるM商事会社の事務所へ通勤して居たのであるが、その日いつもの様に出たきり夜になっても帰って来ないのである。心配になった夫人が事務所へ電話で問い合せてみると、彼女はもう一週間前に辞職届を出して退社していると云うのである。びっくりした夫人は気も顛倒して隣近所の誰かれを掴まえて家の娘はどうしたのだろうと泣き喚《わめ》いて居たが、警察に知らせた者があってやがてローマ警視庁の敏腕S刑事がやって来て情況を聴取して行ったそうである。
 翌日のローマの主要な新聞に懸賞附きでジュリエッタの失踪広告が出た。しかしまだ誰も情報を持って来た者はないのだそうである。之を聞いた時私はおや! と思った、と云うのは広場界隈を魚市場の様に生臭くさせたあの臭いは事によったらそれじゃないだろうかと思ったからであった。
 ジュリエッタは死んだのだと云う噂がもう近所を風靡《ふうび》していたのは驚くべきことであった。それは彼女の奇妙な憑かれた様な眼附が原因なのである。あんな眼附をしている娘にはどんな事でも起るだろうと云うのが彼等の理論であった。
 私は気の毒な夫人に泣きつかれて言葉が自由に出ないものだから全く困ってしまったが、とにかくジュリエッタさんは必ず探してあげるからと慰めて漸く彼女の涙を遁《のが》れ、早速ファビアン喫茶店へ引返した。実際私は不思議にもジュリエッタを見附けることが出来るのは私より他にないと思い込んでしまっていた。最愛の一人娘を失った母の悲嘆が故国に母を独り残して来た私に郷愁《ノスタルジア》の様な悲哀を感じさせたのであろうか。それともジュリエッタの『女性の香気《オドール・デイ・フエミ》』がいつのまにか若い私の心を酔わせてしまっていたのであろうか、しかし唯私は彼女の黒い瞳の中に私にも解る光が潤《うる》おうことがあったのを知っていた!
 私が科学者であると云うことを彼女が始めて聞いた時、ばっと顔を輝かせたが、すぐに不可解な暈取《かげ》が彼女の睫毛にさしたのを私は奇妙な気持で憶えているのである。
「私は科学をとても信用していますわ。何でも実現出来ますものね、夢だって、失われた幸福さえも、私はそう云う人を知っていますの、その方は御自分の許婚《フイアンセ》をお失くしになったんですわ。毎日毎日泣いてばかり居らしたわ、それはそれは許婚を愛してらっしゃったんです。一週間程経ってその方にお眼にかかるといつもとは違って明るい顔でちょっと家まで来てくれないか、と云って私を御自分の部屋にお呼びになったんですの、その部屋の黒檀の机の上に紫の布に包まれた妙なものが見えました。見ない先に私は慄然としてしまいました。それでも私は近づいてみますと、本当にあっと卒倒するかと思いました。
「それは腕なんですの、切り取られた血さえこびりついている女の手なのです。でもまだとても生々とした色を保っていますし、肌は澄み切って繻子の様な艶を持っていましたから、惨たらしいと同時に、大変美しい幻想的な感じを受けました。蒼白な手の薬指には青玉の指輪が煌《かが》やいていました。それはあの方の許婚の手なのですの。私はまだがたがた慄えて居ました。
「その方は私の腕を取って部屋を出、客室の長椅子に私を坐らせますと、微かに笑いながら云いました。−あれは私の作ったものです。本当の様だったでしょう、−私はびっくりしてその方の顔を見上げました。−私はね、ヴィオレッタ−その方の許婚の名なんです−を自分の手で作ろうと思っているのですが、私は天然色写真の専門家ですが、ヴィオレッタの腕の天然色写真を一度撮ったことがあるのでそれをプラスティックで作った手の彫像の上に焼附けてみたのです。思ったより旨く行きましたから今度はヴィオレッタの全身像を作ろうと思っているのです。それで−とその方は仰言るのです」
 彼女はちょっと顔をあからめた。私にはその時その意味は判然《はつきり》しなかった。
「それでその方は今も、一心にヴィオレッタを作っていらっしゃるんですの、それはとても素晴しいものですわ、ヴィオレッタそっくりですの、手を取って見ますと、ヴィオレッタのえくぼのある手です。首の香を臭いでみますと、ヴィオレッタに違いないのです。ヴィオレッタの眼で物問いたげに私を見ています。いいえ彼女よりも却って美しい位ですの、人間には醜い汚いものもございますわ、そう云うものがそれには一つもないのですもの、私、何だか口惜しくなって来る位でしたわ」
 彼女はある時私にこんな話をきかせてくれたのである。科学と云う造物神に対する妖しい熱情が彼女を昂奮し困惑させたのであろうか。私は少くとも彼女の瞳の中にそれを認めたと思っているのだ。科学の不可測なカが妖しく人間を昂奮させるものであると云うことは私自身が知っている。
 私も神経が惑乱する様な強烈な昂奮を研究室で感ずることがあるのである。吾々の人間らしい我儘を気まぐれにその巨大な完全さで復讐する機械の不気味な運行は私達を畏怖《いふ》させるに十分である。ある黒人はダイナモの絶大なエネルギーの前に跪《ひざま》づいた。(註 H・G・ウェルズ「ダイナモ神の犠牲」)ある職工は機械の一部となってただ動く無意味なくり返し作業の人間性抹殺に堪え切れず発狂した。(註 映画、モダン・タイムス)ある技師は機械の完全さを信頼出来ず、大事な瞬間に機械による精神の圧迫からその場を逃げ出し、数千の人間の生命を無にした。(註 リラダン「未来のイヴ」)
 おお人間の精神は機械に対して何と脆弱な哀れな、頼りなげなものであろう! だが未だ二十歳の娘に科学に対する恐怖を信仰を植えつけた写真技師に栄あれ! 娘の神秘感はその人形の造られた巧妙なしかし合理的な過程を越えて人形そのものに彼女の信仰を放射してしまったのであろう。
 信ずるものには見える。彼女はその人形の中に生きた妖しい科学の創った魂を見たのではなかろうか。彼が彼女の瞳の中に知ったのはこの機械に対する人間の狂気であったと思っている。
 ともかく私はファビアン喫茶店に入るや、先程のポーターを喚《よ》んで、下水を調べさせてくれと云った。彼は地下室に私を案内し、石畳を一枚上げた。例の臭いは確かにその下からつき上げて来た。私は暗渠に入り込んで、用意した瓶に下水の水を取った。もしかするとこの水に人間の血が混《まじ》っているかもしれないと聞くと彼はわかってますと云う様に手を振った。
 彼の話によるとこの暗渠の中には十七世紀からのすばらしい犯罪の後始末が山積している筈なのである。ジャンバルジャンが逃げたのもこの暗渠だとユーゴーが云ったのだそうだが、それは冗談であろう。
 −尤も店の羊皮紙で出来た大きな三冊のサイン・ブックの第一冊目にはユーゴーの筆蹟で確かにそう記されてある。
 この悪臭はともかく広場附近だけなのだから下水路からその源《ノース》を確かめることはそう困難でない様に見えた。しかし臭いはだんだん薄くなって来たし、下水に入り込むわけにも行かぬので暫くは途方にくれていたが、ふと気が附いて市役所へ行って下水路網を調べて貰うとファビアンの下を流れているのは百米程上流から暗渠になっているので、それ以前はリァルトオ河と云う名の汚い溝になっていることが分った。
 所がリァルトオ河に沿うてはごたごたした古着屋とか町工場が表通りの華やかな洋装店や近代的な事務所に隠されてほそぼそと息をついているのであるが、その臭いは認められなかった。
 それからファビアンの下を流れている暗渠に沿っては確かにこの臭いがするのである。こう云う事は例のポーターが熱心に調べ上げてくれた。下水の水は大学の衛生学教室に依頼して調べて貰った。所が果してこの水の中に人間の赤血球と思われるものが混って居たのである。
 こうなって見ると事は重大である。念の為臭っている−もうしかし臭いは殆んどなかった−場所から汚水を取って見ると、その大半に赤血球が認められることがわかった。  警視庁の防疫課では大学からの報告によって果然緊張し、すぐ現場の暗渠内を捜査したが、人間の屍体もしくはその一部分も発見されなかった。又とにかくこの様な臭気を発すると思われるものさえも見出せなかった。しかし臭いはまだ微かに認められた。案に相違して何にも手掛りを見出せなかった防疫課では或いは他のものの臭いではないかと云う疑念が起ったので水の再検査を行うことになった。
 私は稍々失望しながら家へ帰った。カステルマリ夫人には何と云ってよいかわからなかった。まあ手掛りを発見したから必ず行方は分ると云っておいた。新聞広告は何にも役に立たなかったらしい。
 ジュリエッタは商事を退社してから一体どこに行って居たのであろうか。毎日いつもと同じ時刻に家を出、同じ時刻に家へ帰って来たのだそうである。S刑事も捜査の中心をここに置いているらしくM商事に姿を見せ、以前同僚だった事務員達に心当りを訊ねて廻っているのであった。彼はジュリエッタは昼食を近所のレストランでとって居たことを知ったのでそこへ行ってみると、一週間程前から見えなかったが、今迄に一度三日程前に見えた様であったと云うのであった。
 之は有力な聞き込みだったのでS刑事はジュリエッタに就いて根掘り葉掘り訊いて見ると、彼女は一ヵ月程前からM商事の事務員ではないある男と一緒に来ることがあり、三日程前に来た時もその男と一緒であったと云うのであった。ジュリエッタは前に云った様に人に騒がれる程の美人であったから、何かそこに恋愛沙汰がある様にS刑事は思ったのであろうが、ジュリエッタの眼を知っている私には例の人形を造る写真技師ではないかと思われた。
 一度科学の靄す魔術的な可能の世界の神秘を知った者に、人間の日常的恋愛の何と色褪《あ》せて見えることであろうか。彼女は彼によって美の世界に創《つく》られた永遠のヴィーナスを見た筈なのだ。
 或いは彼女は人間の美の移ろいのはかなさをこの人造女性の前に悲しく思い当ったかもしれないのだ。科学は神の様に人間の卑れさを意識させる。私がジュリエッタに対して心理的親近性を有し、従って失われた彼女の行動を探査する際の他に対する優越はここにあるのだと信じていた。
 翌日私は例日の如く研究室へ出たが、その日はどうも落着かなかった。大学の光学研究室へ行って「天然色写真」の素人研究家でローマ在住の人は居ないかと聞いて見た。 「ええ居ますよ、ここの研究室の出身でトスカネリさん、まあ彼は一流の写真技師でしょうか、殊にリップマン式天然色写真では… そうそう一度人間の肌の色を焼附けたのを見せてくれたことがありましたが、写真とは思えませんでしたね、今は確かお父さんのドライアイス会社の技師をしている筈ですがね、…そうです。じきそこですよ、リアルトオ街ですから…」
 と話し好きな助手君のおしゃべりの中に重大な物を予感して私は心持慄《ふる》えた。私はジュリエッタ失踪事件と関係がなくても彼女に神を教えた−筈である。もう彼に違いあるまい−トスカネリ君に会う事を決心し、助手君に紹介状を書いて貰った。研究室を出、歩きながらふと私は今歩いている道に昂奮して来るのであった。リアルトオ街、それはリアルトオ河に沿っている!
 T&Sドライアイス会社の工場附属研究室に招ぜられた私は、少し許《ばか》りのリップマン天然色写真に於ける技術上の問題に関する知識を披露し、彼が、生きている様に見事に着色した人体彫像を造っていると聞いたが、見せて戴き度いなどと切り出した。彼は心持暗い顔をして呟く様に語り出した。
「ええ、私はそう云うものを非常な情熱を傾けて製作した事もありました。自分でも妖《あや》しく心がひかれる位見事に出来ました。彫刻写真をモデルから取り、それを原型にして鉄の骨格とプラスティックの肉を作り、それに写真着色をしました。それから又プラスティックで透明な光沢のある薄い皮膚をかぷせ、生毛や毛髪まで植えました。肉の中に綱の様に細い電線を通しサーモメタルで温度を調節し、一定体温を保たせることもしましたし、皮膚の分泌物の匂いを分析してそれをステロイン系化合物から合成して、肉の香もつけて見ました。子供染みた、笑い度くなる様な、馬鹿げた玩具いじりだと仰言るでしょう。本当に私自身もそう思ったこともありました。そんなぎくしゃくした人形を作って何になろう、唯ヴィオレッタのカリカチェアを作るだけではないか。しかし私の許婚への…亡くなったやるせない狂熱的思慕がこの仕事で慰められるのでした。ですけれど実に意味もないものでもそれを一つ一つ重ね合わせると、そこから絶大な魅力を持った総体が出て来ることも考えてみて下さい。恋愛というものも実に意味もないも[#「実に意味もないも」に傍点]のに依拠していると云うことも考えてみて下さい! 私共はその人[#「その人」に傍点]を愛している様に思います。
「しかし私共が愛しているのはその人そのものではなくて、その人の暖い胸の薫り、皓々と輝いている滑らかな首すじ、薔薇の唇に咲いた真珠の歯、微妙な身体の曲線、温味のある白い肌、意味ありげな眼差《まなざ》し…ではないでしょうか、そんなものは人工的にそっくりそのまま造れます。私共はその人の心を愛している様に思います。しかし恋人達は意味のない二三の言葉を唯わけもなく繰返しているに過ぎないではありませんか、恋人達は何を云ってもすべて楽しいのです。恋と云うものは! その人に魅惑を与えるのはその人を眺める私共の想像力ではないでしょうか、錯覚はそれに必要な密やかな努力が正しく払われる結果、ますます絢爛と輝き、いよいよ蠱惑的に思われて来ます。その人の美しさは見る人から与えられ、その人にとってつけられたものではないでしょうか。
「ですから私は私の技術で失った私の許婚もこの世に再現出来ると信じました。唯私の心に彼女の心を創る燃える火があればよいのです。で漸くこうして幻想が固定されてみますと私の作った人形が自然自身よりも美しいとさえ思える様になりました。ピグマリヨン(註 古代の名彫刻家)の様に私は人造人間に恋さえも出来ると思いました。
「自然は変化しますが人造人間は変化しません、それは病気も死も知りません、あらゆる不完全さ、あらゆる覊絆《つながり》の上に超然としています。夢の美しさを保ち続けています。霊感を与える存在なのです。そうなのです。何と素晴らしい事だったでしょう。…ああですがそれを貴方に御覧に入れるわけには行かないのです。私はその人造女性をニトログリセンで『千古の荒涼たる玄夭《そら》』に飛び散らしてしまいましたから」
 と云って彼はハハ…と薄く笑い、手を額に当てた。
 彼の心の底には満々と涙がはふり落ちているのであろうか? おおだけど私はジュリエッタ事件を思い出さねばならぬ。彼のこの幻想にジュリエッタはどう云う役割を果しているのであろうか。
「つかぬ事を伺いますが、ジュリエッタ・カステルマリと云う娘を御存じではないでしょうか?」
 彼は之を聞くと夢からさめた様に突然椅子から立ち上った。彼の姿からは今聞いた幻想のロマンティシズムが一瞬消えて、精悍なリアリズムが発散し、彼の眼はぎらぎら光った−と見えた。しかし彼の声は以前の様に穏かであった。
「知っています。彼女は私の許婚の友達で、私の幻の製作に非常に助力してくれた女《ひと》です。自分から進んでモデルになってヴィオレッタの生命を支えてくれました。忘れることの出来ない女です…」
「彼女が一昨日から行方不明になっているのを御存じですか?」
「ええ新聞広告で見ています。しかし彼女が遠からずそうなると云うことは私には予感がしていました」
「ええっ、それは又何故です?」
「ただ何となくです。…可哀想に!」
 彼はもう物も云わなかった。彼の存在は影の様に研究室の壁へ消えた。私は辞する他に手段がなかった。彼は自分の心象風景の中にのみ生きて居て、そこからとても現実的具体的な手掛りは得られそうもないと思った。しかしそれにしても彼の素晴らしい作品を彼が自分で破壊してしまったと云うのは一体どう云うわけであろう。彼の心理に就いて解くべき鍵があるとすればそこになくてはなるまい。
 彼の研究室には二つの暗室が附属している。部屋の壁にはスペクトル線グラフがはってあり、彼が撮したのであろうルーヴルのルノアールの模写が額になって掲げてあった。その下にはプラスティックやパラフィンの塊と工作器械や薬品棚が雑然とならべてあり、机の上にはアプライドフィジックスが拡げられノートや写真が散乱していた。又作業机の上には工作具の上に厚い綿の入った手袋が大きな金槌と一緒に投げ出してあったが、之はドライアイスを取扱う際に使ったのであろう。前に云った様に彼は彼の父が経営しているこの工場の技師をしているのであるが、実際は別に技師として働いているのではないと云う事であった。しかし低温恒温槽等の特許を持っているから、会社に取っては役に立つ存在なのであろう。
 私はみちみち歩きながら考えた。ともかくジュリエッタの精神生活に最も重大な関係を持っているのは彼である。だからもしもジュリエッタが単に偶然の機会《チヤンス》で行方不明になったのでないとしたら。私は合理的思弁に慣れている学究の弊として、この偶然と云うことをあまり信用しなかった。それに偶然が彼女を失踪させたのなら、もう四日も経っている今日その手掛り位は偶然に掴めてもいいではないか。未だ何らの手掛りさえも得られないと云うのはそこに誰かの周到な用意と意志が働いているのではないか? −それ故少くともジュリエッタの失踪の内面的心理的原因の一部は彼にあると見てもよいのではないかと思えるのであった。心理的原因としてその他に思い当ることは見つかって居ない。
 殊にカステルマリ夫人は娘が一体どうして失踪したのか、全くわからないのであった。唯暴漢によって誘拐されたのではないかと云う三面記事的な連想しか浮ばないのであった。之は警視庁当局でも同様であったが、唯ここでは刑事が必死になってジュリエッタの足跡を追求していた。M商事の前のレストランでジュリエッタと一緒に昼食をとったと云うのはトスカネリに違いあるまい。
 S刑事は私にこの話を聞くや喜び勇んでトスカネリを訪問したそうだ。しかし残念ながらその後のジュリエッタに就いては彼も何らの心当りもないのだそうである。彼女の失踪の動機も彼には想像がつかないと断言したそうである。之は私に云ったことと矛盾する。唯彼の心象風景を理解出来ると思った私にだけあの様な暗示を与えたのであろうか。
 S刑事はしかし断念しなかった。頑強にトスカネリの身辺に喰い下ってジュリエッタ失踪の糸口《クルー》を引きずり出そうとしているのであった。少くとも失踪前日まではここにつながっているのだ。彼は既にこのT&Sドライアイス会社へ手を入れていた。そしてトスカネリの不可解な研究に就いて恐怖を混えた噂が会社内に拡がっているのを知った。
 一方警視庁衛生部で下水検査を行っていた。もしも事件が之と何らかの関係があるとすればこの外的証拠から手掛りが得られる筈なのである。この汚水検査は悪臭事件とは独立に社会・衛生防疫上の見地から、市内各地から取られたサムプルと比較して精密に行われたのはこの事件に取って好運であったと云えるだろう。この汚水検査の精細な結果−この中には統計的に相当重要なものも含まれて相当に興味のあるものであるが−は省略して唯注意すべきはリァルトオ暗渠内の下水は他の箇所のものに比較して水素イオン《ペー・ハー》濃度が異常に低いのであった。即ち酸性度が高いわけである。
 之は何に原因するかが部内でも問題になった。と云うのはこの附近に酸を用いている様な工場等は皆無であり、酸性の汚水が排出される可能性が見つからないのであった。之を聞いた時私はいつもトスカネリの事が念頭に離れなかったのでふと、トスカネリ会社のドライアイスが流れ出ているのではないかと思い当ったのである。ドライアイスは勿論炭酸ガスの固化したものであるから、之が昇華して炭酸ガスとなり水に溶ければ炭酸となって下水の水素イオン濃度をさげると考えることも可能である。
 しかし一体どうしてドライアイスを下水に流しているのであろう。之と下水内の人間の赤血球の存在との関係は?
 S刑事は連日ドライアイス会社の附近を注意していた。翌日の未明又もや附近に例の悪臭が漂《ただよ》っている−尤も今度はS刑事が特に注意して居たために漸く判った位微かなものであったが−と云うことを彼は発見したので、暗渠の中へ這入り込んだ。しかし臭いの所在をつきとめることは殊に弱い人間の嗅覚では困難なことである。まして暗渠の中は種々の悪臭が入り混ってむっとする位であるから、その中からあの魚の腐臭を探しあててそれの源を探査しようと云うのはあまり信頼出来るものではない。彼は早速私を喚んでくれたので、私はぺー・ハーの指示薬と寒暖計を持って出掛けた。丁度ドライアイス会社の附近で測ったのでは水温は十四度ぺー・ハーは五・六であった。S刑事は確実な証拠を掴めなかったので稍意気消沈したが、私はただ翌日を待った。既に臭いの消えた翌日同時刻に同所で私はある期待を持って同じものを測った。それは前日のに較べると水温は三度高く、ぺー・ハーは一度程高くなっているのであった。
 ドライアイスは温度摂氏零下八十度であるから果して臭いと同時にドライアイスが流れ出して温度を下げ、ペー・ハーを下げるのであることが確証された。
 ここまで来ればドライアイス会社と悪臭事件、それから或いはジュリエッタ事件との関係を疑う事は出来ないから、私共は会社へ乗込んで行った。ともかくトスカネリに会って事の次第を訊《はな》して見ようと思ったのであった。
 昨日来て見憶えた廊下の突き当りの彼の部屋の前まで来るとドアが明け放してあったので私共は案内も乞わず入って見ると中には誰も居なかった。私共は暫くまごまごしていたが、丁度女事務員が通りかかったので彼の所在を尋ねた。
 彼女はこの部屋に居ないのなら低温実験室に居るかも知れぬと云ってその部屋を教えてくれた。但し低温室で研究中は彼は誰とも面会しない事になっていると注意してくれた。しかし私共はともかく教えられた通り引返して工場へ続く廊下を行くと更に別棟になっている低温実験室へ続く廊下が右に折れている。
 実験室は恒温室になっているのか、窓の二重になっている壁の厚い建物であった。窓にはカーテンが下してあったが、僅かの隙間があったので、ふと室内の異様な光景が洩れたのであった。室内の壁には樹氷が附着し、唯一つ室内を照しているスタンドの電光を反射してきらきらと輝いていた。寒暖計の差込んである恒温槽が二つおいてあり、金属製の計器類が散乱してそれらも怪しい光を放って居た。
 このきらめく氷雪に囲まれた作業机の前で、彼は大きな金槌を揮《ふる》っていた。彼は厚い防寒服を着、綿の入った大きな手袋を着けていた。防寒頭巾のガラス越しに彼は青白い眼附しで金槌によって輝きながら散乱するものを見つめていた。それは白蟻の様に燐光を放って居り、破れた白い表面からは黒ずんだゴム状の物が不気味に溢れ出て居た。之は甚だしい低温で凍結されたものなのであろう。打下す金槌の先で微塵になって砕け散っていた。
 彼はそれを更に細かく細かく打ち砕き、ジャージャー水を流してある流しへ捨てた。彼はそれから恒温槽を開いて又奇怪な白蝋を取り出した。ああ私は急に慄然として肌が粟立ち、不思議な黄色い想念が頭の中で熾熱した。彼の取り出したものが人間の腕の様に思ったからであった。彼はそれを握りしめて居た。そして手を放すと茫然と氷結した腕の方へ顔を寄せた。そして彼はその腕の上へ突伏してしまった。私共は冷えた窓に顔をつけ歯をがくがくさせながらこの異様な光景に見入って居た。
 おお之は一体どうしたことであろう。之こそあのジュリエッタが見たと云う物質化された幻影の腕であろうか、彼の失われた恋の蜃気楼であろうか。彼は今之を無残に打ち砕いているのだ。極北の氷寒世界の楽園喪失。おおしかし之は彼の人形の腕ではなくてジュリエッタのではないだろうか? そうだ彼女の腕だ! 大変だ、彼は彼女の裸身を破砕しているのだ!
 私は部屋の扉をどんどん叩いた。彼は一度ぶるっと身慄いしたが動かなかった。私は体毎ドアにどしんどしんぶつかった。そうした肉体の狂乱がますます私の惨めに歪められた神経を攪乱し、はてはウアーウアーとわけのわからない声まであげて扉にぶつかっていた。

×

 彼、トスカネリは逮捕され裁判の結果ジュリエッタの死に対して有罪を宣告された。ジュリエッタの裸身が恒温槽の中から上半身だけ発見された。ドライアイスで凍らされた下半身は砕かれて暗渠の中に流されたのである。彼はジュリエッタを殺したのではないと主張したが、容《い》れられなかった。彼女の胸に突き立てられたナイフの刺傷が致命傷で、そのナイフは彼の所有であったから。
 だが彼はジュリエッタを殺すべき積極的理由を持たない。勿論検事の論告にも述べられた様に彼と彼女との間に友情以上の何らかの関係が成立していてそこに悲劇の原因が胚胎したと見られないこともない。しかしそれの決定的な証拠はない。私は彼及び彼女の性格からそう云う俗論的解釈を信ずることは出来なかった。トスカネリには一度会う機会があったが、そのとき彼は私にこう語った。
「ジュリエッタは自殺したのです。…丁度私の人造女性が出来上った時、彼女は私のために大変喜んで私を抱擁しおめでとうを云ってくれました。彼女は人形を見て、素晴らしい素晴らしいと感嘆して居ましたが、終には何も云わず唯永いことじっと見つめて居ました。そして奇怪な眼附をして私を見ながら机の方へ寄って来るので私は何かするなと直感しました。彼女はやにわに机の上に載せてあったナイフを取りあげて、人形に飛びかかりました。私は驚いて背後から彼女を抱き止めました。彼女はわっと云って身もだえして私の腕の中に泣き崩れました。私はどうしたのと云って彼女の顔をのぞき込みますと、彼女は涙に濡れた妖しく光る眼で私を見つめて居ましたが、私、もうだめ! と叫ぶと突然胸にナイフを突き立てたのです。私ももう手の尽し様がありませんでした。私は彼女が哀れで−彼女がどうして自殺したのか、その原因を思いますと−哀れで…(彼の声は吾にもあらず慄えるのであった)
 私は後にあの人形を−彼女を殺した−ダイナマイトで粉々に吹き散らしてしまいました。
「私は彼女の屍体を抱きしめていましたが、之をどうしたらいいだろうと思い惑いました。彼女が自殺したのだと云っても誰が信用してくれるでしょう。それに私は彼女と離れ難い気になっていたのでした。しかしやはり処分しなければならないのでとうとう屍体をドライアイスで凍らして粉砕して流してしまおうと思い立ったのです。それが彼女にふさわしい様に思いましたから。しかしそんなことをしたのは却っていけなかったのです。…ですが私に取ってはそれももうどうでも良いことです。ただ死ぬ前にジュリエッタの悲しい気持を貴方の胸に残しておきたいと思ったものですから…」
私は彼の云ったことは全部正しいと信じた。私は自分の理解する限りのあまりにも[#「あまりにも」に傍点]完成された器械に対する人間の恐ろしい感情を説明した陳述書を法廷に提出し、ジュリエッタの自殺を証明しようと思ったのだが、何分にもこの異常な心理を人に納得させるに足る証拠、つまり過去に於ける累積する事例をあげることが出来ないばかりでなく、之を審議する人々は科学には縁のない人々であるから、結局トスカネリの罪を軽くするのに何等のカにもなり得なかった。
 彼は微笑して刑場の露と消えた。私は研究もまだ終っていなかったが、チロルヘ唯一人旅に出た。

初出誌「ロック」1947年5月号/底本「幻影城」1975年12月号No.34


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